昭和四十五年七月二十日 夜の御理解


 親が苦労をする、子が楽をする、孫が乞食をすると、そういうものだということわざですけれども、実に端的に表現した事と思うですね。親が一生懸命働く、子供がそれに胡座をかいて楽をして、孫はやはり元の木阿弥という乞食をしなければならないような結果になるという訳です。これは親とか子とか孫とかという事ではなくても、私共の信心の上にも、それが言えると思うんです。私が信心の修行をかげ頂く。そしてそのおかげを頂いておる間にね、又おかげを落とすものを作っていきよる。私が信心の苦労をする。そしてその信心の修行でそのおかげを頂く。そのおかげの為に、又おかげを頂いておる間におかげを落とす問題の種というものを、おかげを受けておる時に作っておる。そしておかげを落としていく。同じ事が言えると思う。
 今晩、私が菊栄会ですから、菊栄会の事をお届けさせて頂きよりましたら、先日からこの前、先月の十三日会の時に、私の茶室の前の庭にふきがきれいに生えよるんです。その中からですね、手洗いの方にしだが2、3本なんともいえん格好、具合。まるっきりそこに植えたようにです、生えよった。十三日会の時にお掃除にきた人が、取らなくちゃいけない雑草と思ったんでしょうね、しだぐらいですから、けれどもなかなか、まぁ結局風流かえしない訳でしょうが、ちゃんと取ってしまっとる。私がそれを久富先生に云ったら「今度、云っときます」と云って、おかげで根が残っとったらしくて又出とった。そしたら今度の十三日会に又きれいに取ってしまっとる。「ちょいと馬鹿じゃなかじゃろか」と私は云いましたけど、取ってしまった後でしょうが、だから「今度、十三日会は誰か分かった人にしてもらうごとしてから、誰も入れんごとしなさい」と今日、私は久富先生に申しました。それが今度、こんくらいばかり出よるです。それが今度は、もう格好のよかとこに出らんで、反対の方に出てきよるです。もうほんと、私、惜しゅうしてならんですけれどもね、もうこれで三べん摘まれる。しかしほんと、どうしてこげなこつが分からんじゃかと思う。分からん人は分からん、ですからやっぱ仕様がないです。
 菊栄会の事を今日お届けさせてもらいよったら、そのしだがなんべんもなんべんも摘まれては生え、摘まれては生えするところを頂くとですよ。「あぁ、これが現在の菊栄会の信心の姿だ」と私は思うたんです。もう、しだというのはね、いうならば不毛の地、もう枯れた地。喜びの種をまいても喜びの芽が出ないというのです。しだというのは、死んだ田とこう読み替えて御理解に頂くのですよ。だから生きた田でなからなきゃいけない。種をまきゃそこから芽が出ると「信心の今日は、よかお話を頂いた」というたらそれがですね、芽をいきらにゃいかんのです。そして、喜びの芽がしこって花が咲いて実が実るというおかげを頂かなならんけれども、これは今の菊栄会の方達の場合という事は、もうそれはそのまま合楽全体の事だと思います。いうならば、菊栄会の人達は、合楽の信心は分かると思われるくらいですからね、いうなら。今の状態が菊栄会ですから、まぁいうならばですね、どういう事でしょうかね、親が苦労して子が楽をすると、いうならこれは、一人一人の事が言えますよ。例えば会長である、正義さんなら正義さんの信心。正義さんが一生懸命、信心修行さして頂いて現在のおかげを受けておるというところにあるです、今。ですから現在のおかげのままであったら、いかにもおかげが成長していくかのようにある。なるほどおかげは進んでいきましょう。けれども、おかげを頂いておるうちに、どうにも出来ないような致命的なものが育っていった。いわゆる乞食をするというようなものの元が育っていきよる。ここが怖いと私は思う。だからこれを合楽全体の場合をいうても同じ。私が信心の修行をさせて頂いて、今日の隆盛を段々見るようになったというのは、これはね、今、例えば子が孫が乞食をするような、そういう元がいつとはなし、どことはなし出来ていく。そして私共も思っとる【  】も思っとる。「これじゃいかん、こげな信心ではいかん」と思いよるだろうと思います。それは今、自分の心の中に生き生きとした信心の喜びが育っていかないという事なんです。だからこれではいかん、今日までこうおかげを受けてきたんだから、次の又、よりおかげを受けるための生きた田というか、信心の喜びの芽が出て喜びの花が咲いて喜びの実が実る、次の世界が次の時代にあらなければならん。それが現在の合楽の姿だ。これは菊栄会の姿だけじゃない、いわば合楽のしくずのようなもんだと思うです、その菊栄会の姿というのは。いわゆる、こういう信心じゃいかん、ここに信心の喜びがどんどん育っていくような信心の状態にならにゃいかん。なんとはなしに、生き生きしたものが欠けてきたと気が付いてきておるのですから、これがなんかの機会にですね、ここにもう一度修行し直しというようなことになりませんと、なんとはなしに現在のおかげに腰掛けておるうちにです、もうどうにも出来ない致命的なものが、いわゆる孫が乞食をするといったような元が今、出来ていきよるという事を思うとですね、これはうかつな事ではいけないなあという風に、今晩のお知らせを頂いてから感じました。これは菊栄会の事だけじゃない、合楽全体の事。おかげを受けておるからこれで良いという事じゃないです。 それは、前に修行があっておったから、その修行の形の花やら実が今、実っておるんですから、これが次ののっとる間に、いわゆる孫が乞食をするような元が育っていきよりはせんかと、又いきよる事を感じる、又こんな事じゃいけない事も感じる。ですから、なんとかそこにもういっちょ生きた田、喜びの種をまかれたら、そのそれがすぐ芽をきるような、いわゆる不毛の地ではない、沃土とでも申しましょうかね、素晴らしいおかげの、いうならば田地田畑といったようなものが、又新たに用意されなければならない時期にあたっておるのが、現在の教会ではなかろうか。現在、このようにおかげを受けておる、まぁ余所のどこどこに比較するなら、そりゃ大変の事のように見えるけれども、それはね、そういう中に孫がいわば乞食をしなければならないような模様が、そういういんというものが段々育っていきよる事が気が付かんでおる。だから気が付かん訳じゃない、気がもう付いていきよる。そして、こげな事じゃいけんとも思うておる。今一番大事な時だと。それをなんとはなしに、十三日会たびにかつがつ、その抜いてしまってですね、しだであるか何かすら分からんようにでもなっていったら大変だと、こう思うんです。現在の合楽の信心は、まぁいうならば、しだのようなもの。それはもう過去の修行が今日、こうしてものを云うておるだけの事。だから次に、もっと大きなものを云わせるための信心というものは、今こそ出来ねばならない時であるというですね、自覚を持ってそこのチャンスをそういう信心の切り替えのチャンスをですね、願わなければいけないと思うですね。どうぞ。